前回の続きです。 会話で表すと分かりにくいので、お互いに話して分かったことや私の気持ちなどをまとめて表す書き方にします。
無宗教の私だがその宗教独特の「言葉」には興味がある。例えば仏教の「ご縁」という言葉が好きだ。 亡くなってから始まるという仏教。
その「ご縁」の意味を考える機会も増えた。 疎遠になっていた人と共通の知り合いが亡くなった葬式で再会し、再びご縁が繋がる事もある。 まさに仏教の死生観である「ご縁」が導いたものかもしれない。 日頃からご縁というものには感動したり時には皮肉なものだと思ったりもする。
カトリック教ではこの「ご縁」を意味する言葉はあるのだろうか?
「近いものだと………恵み、ですね」 聞き屋さんは優しい表情で教えてくれた。 私はこの答えに感動してしまった。なるほど!恵み!確かに何やらそれっぽい!とおバカな感想しか浮かばなかったのですがね。
そしてカトリック教の「恵み」とは、全ては神からの授かり物だと捉えているようだ。これは多神教の日本ではあまり考えられない考え方だ。
そこへ突然12月の寒空の下に麦わら帽子を被った人が通り過ぎた為、ONE PIECEの話になった。 どうやら聞き屋さんはONE PIECEのファンらしい。ちなみに私はそんなに詳しくはないが読んだ事はある。みなさんは空島編をご存知だろうか。 個人的には多神教の話だと解釈している。
神の存在はひとつではない。そして神はいないと思っていても何かにすがり神に祈る。身近なものを神とし神に縋る。 カトリックのような一神教にはない発想だ。 聞き屋さんはどう捉えたのだろう?
聞き屋さんはやはりあの内容は理解し難くあの祈りはただただ疑問だと教えてくれた。国や宗教によってやはり受け取り方は変わる。
日本は信仰に自由がある国。占いも市民権を得ている。例えば北朝鮮では占いは禁止であり、信じるべきものは総書記のみ、占いを信じるなんて言語道断。一神教には一神教の捉え方がある。
我が国NIPPON、信仰自由過ぎ、ここまで「多神教」な国も珍しいのかもしれない。 全ては神からの「恵み」だと捉えているカトリック教。その死生観をもっと知りたい。
そして話題は安楽死へと変わる。 現在、安楽死を認めている国はヨーロッパに多い。私は土地柄カトリック教の何かしらの影響があるのではないかと感じていた。または命というものについての価値観が、そもそも日本とは違うのではないだろうか。 とある人の影響も受けての考えなのだが綴るよ。
日本は「集団の国」である。それ故にか命も個人のものではないと考えているフシがある。 ざっくり言うと「あなただけのものではないのだから大切にしなければいけない」などどいう共通財産のように教えられているフシ。その考えが安楽死の決定権が本人に与えられない理由になっているのではないだろうか。
日本人は周りを推し量れる民族、一方でその気持ちが強いばかりに本当の決定権は本人の希望から離れていたりもする。 そして例え「個」を主張しても、その選択の自由に口出しする者も後を絶たないであろう、圧力大好き誹謗中傷陰口大好き日本人。
他人の決定権を尊重しながら死と向き合うには向いていない民族なのではないかと思う。(政治的問題も話し合いましたが長くなるので今回は割愛します) 対してヨーロッパは「個」の国。命は貴方のものであり、貴方に全ての選択の自由がある。その考え方が安楽死の許可と繋がるのではなか…
「命は神のものです」
ぅおう!!! 想像を超えた意見に私は舌を巻いた。私が思っていた以上に信仰とは表面的ではなく底が深い思想を持っていた。 命は神から授かったものだから、そもそも人間の判断で決めること自体いかがなものかという考えであった。
「あの、カトリック教では人は亡くなったらどうなるのですか?」気になったので聞いてみた。
「この世の終わりの日に全員復活します。まぁ、この世は終わっているのでどうなるのでしょう?って話なのですが。だから亡くなったら魂で会える仏教とは違うのです。復活する事で皆に会えます。先に亡くなった母もそうやって待っています。私にとっては救いです」「大切な人に会えるのは救いですよね。復活の日まで死者は全員超暇ですね…何してるのでしょうか?」「キリストも亡くなった後、復活まで何をしていたかは聖書にはっきり記されていません」
うむ、私は宗教のこの「良い加減」が好きである。 身近な住職さんの言葉を思い出した。
仏教もあの世の存在は断定する言葉は記されていない。信仰とは真実を知ろうとする事ではなく、信じ切ること。信じ切った人間は穏やかな死を迎えられる。たくさんの人を見送ってそう感じたと、そんな言葉を聞かせてくれた。
私も真実を知る事が全て解決に繋がるとは思わない。勝手に解釈して思い込んで自分の救済論として心に落とし込む。そんな幸せが幸せなんじゃないの?なんて思っている。
「諦」という漢字は「真理や道理をあきらかにする」を意味する。真実を知ってしまうと何かを諦める事になるのかもしれない。だから知らない方が勝手が良い事もある。ちなみに「諦」これも仏教用語。うまく教本立ち回ってんな仏教用語。 知らない方が自分を助けてくれる。 私はそんな風に思っている。
私達の仕事もそうかもしれない。 本当の事は対価が発生している間にどれだけあるのだろう。嘘も処世術。嘘はこの世界で成果を上げる為、自分を守るために効率的な技術だと言い聞かせてやり過ごしてきた。
私はできる限りは正直にやってきたつもりだ。でもそれが必ずしも正しいばかりではなかった。必要に応じて嘘もついたし、それもお客様の求める善には正しい選択だったと思う。だからその全てを知ろうと行動したり、私を詮索した人は幸せにはなれなかっただろう。 知らないことの方が、きっと幸せでいられる。 真実を知らない事は何事も救いになるのかもしれない。
私が今こうしてこのブログを続けていられるのも、あなたとの関係性が変わったからである。 対価を頂く身としては知られてはならない内容もたくさんあるから。着ぐるみの中の人間なんて一度でも見たら、二度と同じ気持ちには戻れないのである。
そして「人はどんな時に神に祈るのか」のテーマに変わる。ん?そもそも神に祈る事はない。無宗教だしな。 聞き屋さんと話し合う為に考えてみた。無宗教の自分でさえ神に祈る時とな…?
「諦めた自分を知る時ではないかと思います。全て何もかもなくて最後の手段だと思うので、諦めたり全て失った時かなと。なので祈る時は来ない方が幸せだと思います。でも御加護というのはあると思うので御礼は然るべき時には伝えています。特に参拝した時とか」
「あなたは自分を信じているのですね」「今日の決まり事も作れない人間ですが、自分の中の宗教みたいなものはあるのかもしれません。無宗教なので各宗教の都合の良いところだけ自分に信じ込ませているんだなと思います。それが私の救済論なのかなと」
少しかわいげのない宗教観を聞き屋さんは否定せずに聞いてくれた。
自死した祖父は「神に祈る事は罪だ」と言っていたのを思い出した。諦めた自分を思い知る事だから、神に祈ったら人間は終わりだなんて言っていた。 原爆が投下された時に一度だけ神に祈った。その時ほど諦めは罪だと感じた事はなかったと。 当時の価値観ではそれは珍しい事ではなかっただと思う。
そんな拘りの強い祖父だったから、罪を知るぐらいなら自死する方が彼なりの正義だったのかもしれない。 祈りってなんだろう?ある人にとっては感謝、諦めや罪、決意表明、習慣…祈りの幅広し。
ただ私は「神に祈る」という事には賛同しなかったが「祈り」の効果には信憑性があると信じている。 私は祈りとは神に捧げるよりも、対象の誰かや物事に自分の中で願うものだと思っている。神は頼るものではなく御礼を伝えたり約束をするものだと思っているから、願い事もしない。
宗教と医療の論文でも祈りの効果は信憑性があるとされている。不思議だね。

カトリック司祭であり、イタリア人の聞き屋さんだ。聞いておきたい事があった。
「聞き屋さんは日本人に対してどのような印象がありますか?」
「遠慮なく言っていいのですか?」 ゴクリ…聞き屋さんの真っ直ぐな視線にちょいとビビってしまったが、私はこれが1番聞きたかったのだ。
続く。 長くなるので近々更新します。意味ありげなところで区切りましたがそんな事もないのです。
祈り繋がりの巫女。 意外かもしれませんが、私は巫女経験があります。助勤ですが。20代前半の頃の話し。 採用試験は巫女らしい容姿とか神と固有文化についての論文みたいなものがありました。あと眼鏡禁止。ちなみに私はエロ屋の仕事中以外はだいたい眼鏡掛けてます。 接客業とはまた違う作法や言葉使いを教えて貰いました。いつの日か詳しく書きたいのですが、エロ屋やりながらだったのでビビっとる。もちろんこれはコスプレ。

まきまい