☆エロ屋さんの戯言☆

長年エロ屋に関わっている自分の日常のあれこれや戯言を綴っています☆

入院シリーズ⭐︎始まり編

 
何度か書いていますが、私がブログに書く内容は時系列バラバラ、もしくはけっこう過去の話です。内容によっては数年ぐらいズレがあります。
今回は入院シリーズの入院の始まり編と同室の患者さんの話を書きます。数年前に書いた入院ネタとはまた違う機会のお話しです。
 
 
前回は自分を鼓舞する為に卍を書いてしまい、退院までひたすら恥をかく事になった。今回はこんな中二病なことはしないと誓う。

 
 
 
 
 
今回入院する病院は病床約1000という大病院であった。私は少しワクワクしていた。
本来楽しいものではないから、無理にでも楽しみを見つけるのはとても大切な事なのである。
 
病院によっては一切撮影禁止の場合もあるので、事前に確認。処方されている薬や点滴の写真も撮影禁止の病院もある。大人の事情らしい。
もちろん私も状況を考えながら撮影しましたのでご心配なく。
こういう内容はもし私がバズってしまったら(そんな心配ないが)今後書けなくなるであろう。
とりあえずデジタルタトゥー刻んでおくわ。
 
 
 
初日、まずはこちらを貰う。
ハイテクである。通話スペースや病棟に入る際はこちらのバーコードをかざさないと入れない仕組みになっている。

 

ちなみに面会遮断であったが、お見舞い人もこちらを貰いかざす。これで変なYouTuberに「知らない人の見舞いに行くドッキリ」をやられる心配もない。安心である。
何年か前に本当にあったから許せんよな。

 
 
今回はなんとお部屋のランクが上がりました。
とは言え私の希望ではなく病院の都合によりです。豆知識、病院の都合で部屋代に差額が発生する場合は支払わなくて良いのです。確か厚生省のホームページにも書いてある。
知らないと請求される場合もあるのかな。知っておいて損はないと思うぞ。
 
 
 
こちらは前回。

 
 
 
んで今回。写真だと伝わりにくいがちと広い。お隣さんとの区切りがカーテンではなく棚になっている。今の病院って個人冷蔵庫があって有難い。昔は共同で名前を書いていたよね。

 
そしてなんと立派なトイレ付き!ありがてぇ〜!

 
これ見ると呼吸器や皮膚からも薬剤成分が吸収される事が分かります。 

 
 
 
 
 
ウェルカムセットである。
今回のお部屋はレンタル付きであった。これは有難い。業者さんが来る前にサイズチェックをしておこう。

 
 
 
でも靴は借りませんでした。店舗型風俗ではいつも履いていました、毎度お馴染み上靴です。浮腫んでパンパン。

 
 
 
 
そして今回とても有り難かったのは無料Wi-Fiがあること。これは嬉しい!!

 
 
そして向かったのは前もって献立のチェック。
でも、だいたい何日後辺りから自分がどうなるかの想像はついている。なので「ああ、この頃は食べれなくなっているのかな」と少し切なくなる。手術の日肉豆腐なのかよ!ちくしょう!

 
 
前回入院した時はコロナ真っ盛りで、私語厳禁、病室前の廊下以外の移動は禁止だった。売店に用事がある時は准看護師さんに買い物をお願いするなど制限があった。
今回もそれなりに制限があったが、かなり緩和されそれも有難いところであった。
なので、調子に乗って元気なうちに動きたい。
 
 
 
 
 
憩いの場。お話仲間ができるといいな、、とかなんだかんだ言っても思ってしまう。誰もおらん。

 
 
 
 
全てが広い!!キレイ!

 
 
 
ひろっ!!

 
 
 
 
ながっっ!!

 
 
 
 
いや〜さすが大病院。広いね。すごいよ。そろそろ戻ろうかね。
 
 
 
 
 
………………。
 
 
 
 
………ここではない。

 
 
………………。

 
 
 
え?教授選考会が行われる場所でしょうか。

 
 
 
 
 
 
 
困りました。迷子になりました。
 
 
 
 
 
スタッフステーションで泣きつくことにしました。
「看護師さん…すんまへん…うろちょろし過ぎて迷子になりました。浅井真紀です。病室どこでしょうか?すまんへん」
 
看護師さん、お忙しいところありがとうございます。親切に教えて頂きました。
無事ペンギンと同室に到着です。
病室って4とか9ってないとかなんとかって言われてませんでしたっけ?

 
 
 
これは前回の写真ですが、あの時も迷子になり車椅子で徘徊している所を無事保護されました。鎮静剤で二度と徘徊できなくなるようにされている様子です。記録の為、看護師さん撮影。

 
 
 
 
私はとても方向音痴です。
 
 
 
 
 
 
なんとか帰れたので続きはまた。
次回は本編、同室の患者さんのお話です。
ペンギンの話ではないです。
久々に真面目なやつ書くよ。
前になんかで載せたやつと重複してるけどすまん。ひとつ冗談があるから信じたらダメですよ。
 
 
 
 
まきまい

実家のトイレ新たになる

 

酷暑故、身内を売る私の悪いヘキが始まりました。

実家ファンの皆様、お待たせいたしました。

 

お盆に帰省しようか迷っていたところ、実家の便どころが壊れたとの悲報が届きました。

実家は一つは和式の汲み取り式。

もう一つは水洗でした。とは言えかなり古いタイプだったので、ついにリフォームする時が来たようです。

 

そして2週間後。ついに新たなトイレの誕生です。喜びの声、届いています。

なんとウォシュレット付き!

壁で操作が可能。一同おののきました。床も心機一転。

なんと用たしだけでも歓迎されるとのことです。

 

今年は大人しくこちらでおしっこして過ごすお盆になりそうです。

 

ではまたねー。

 

 

まきまい

聞き屋さんに話し掛けたけど方向転換した⭐︎後編

聞き屋さんの答えはこうだった。
日本人はエスパーかと思うぐらい察する能力が高過ぎる。でもそれが故に察してもらう事にも慣れ過ぎてディスカッションが下手だ。能力に頼り伝えようとしない。
建前と本音も分からないし、嘘つきとすら思う事もある。匿名での人格もあまりにも違う。
だから話していて何もかも疑わしく分からなくなってしまう事がある。
 
……ほほぅ、ヒジョーに痛い所を突かれた。私はこの考えに心底納得をした。
昨今この察してちゃんや、匿名でないと意見が言えない人は急増したと思う。本来は日本人独特の長所であったはずが、悪い方向に作用してしまいとても悲しい。
そもそも日本のことわざは言わない方が良いを意味するものが多い。
「泣かぬ蛍が身を焦がす」「雉も鳴かずば撃たれまい」「言わぬは言うに優る」「言わぬが仏」「口は災いの元」「雄す弁は銀、沈黙は金」これはちょいと違うか。
思いついただけでもこんなにある。そして逆を意味することわざは思いつかない。
こういった文化が察する能力や奥ゆかしさを伸ばし続けてきた反面、コミュニケーション能力の成長の妨げになったのかもしれない。と私は聞き屋さんに答えた。聞き屋さんは真剣な表情で深く頷いてくれた。
 
うむ。例えば私は「相手への配慮で質問ができない。会話ができない」「嫌われたくない」というのは、それ全て本当か?と思っているフシがある。
ならば「むしろ我は色々聞かれたい構ってちゃんです、何を聞いても絶対大丈夫ルールです。なので色々質問して下さい」と言う相手になら質問できるのであろうか。たぶん違う、それでもできない人はできない。しない。
だとすれば理由は他にありそうだ。
日本人の奥ゆかしさ、配慮、察知能力、本当にそれが原因なのか?否。
できない、やりたくないから一層のことその能力が高い方に会話の展開を任せてしまおうという人も多いのではないだろうか。自分の話は広げて欲しいけど、相手の話は広げられない、またはそれができない。したくない。でも反論だけはする。たぶんどこの世界にもそういう人はいるであろう。特にSNSの世界には溢れかえっている。
 
もちろん何でもかんでも聞いて話す事が正しいなんて全く思わない。
察する能力というのは無言の中で使うだけではなく、発する言葉の中でも発揮するものでもあるという事が言いたいのである。
もちろん時には沈黙力というのもとても必要で、ただ気持ちにひたすら寄り添い言葉を使わない配慮も同じぐらい大切だ。
そう、どちらも同じだけ大切なのだという事は強調しておく。
そんな対話の比重がとれた関係は、もはや奇跡なのかもしれない。
 
もちろんこの能力や関係を築くのは、付け焼き刃ではどうにもならないのは承知だ。
人と話す事は相手を傷付けるかもしれないし、自分も傷付けられるかもしれないという恐怖心がついて回る。
私もコミュニケーションを取る上でたくさん人を傷付けてきたと思うし、たくさん失敗もした。たくさん失礼があったに違いない。能力がないせいで自分自身も傷付いた。特に若い頃は権力のある男性の前ではたくさん酷い目にあった。
だから主張や譲歩、相手の気持ちを知り思考する事は大人になる前にやるべき事だと肝に銘じ、自分なりに試行錯誤をした。
大した売りもない容姿も持たない自分。人としての魅力なんてない。だから教養という抽象的でしかなかった概念を具体化して「コミュニケーション」というものに全て昇華させて、自分を商品化すると腹を括った。大袈裟かもしれないけど、本当に。できているかどうかはこの際置いておく。
ちなみに「教養」とは単に座学とか学歴とか、ましてや偏差値とかそんな事ではない。
では辞書を引いてみよう。人間の精神を豊かにし高等円満な人格を養い、育てていく努力、及びその成果。人間としての総合的な精神的能力である(日本大百科全書より)おお、それやねん。
 
 
実際のところ、これは小さいコミュニティの中での困り事では済まされなくなってきたのだ。
もはや国際問題なのである。日本は黙っているのを良い事にナメられているのだ。日本人の良き能力が良いように世界から利用されている。
このままでは日本が崩壊してしまう。 
本当はもっと色々ここに書きたいし、聞き屋さんの意見も聞きたかったのだが、関係性の問題で控えざるを得ない。
 
「黙っていたら悪が勝つのは当たり前の世ですからね。このままでは日本人は日本人でなくなってしまうかもしれませんね」と伝えるのが精一杯だった。でも多くは語れない関係も心地よい。
最後に聞き屋さんと自分達に必要な事について話しをした。
 
 
とりあえず軍鶏小屋で鍛えたフィジカルを披露してくるわ。うちの父は軍鶏を育てていました。たぶん違法だったんじゃないかと思う。闘争心半端ないです。あいつらマジで怖いから。

 
 
私達にできる事は何だろうか。
まずは他人に興味関心をもって対話をすること。分かり合えなくても当たり前。否定しない傷付けない。質問する側もされる側も、その答えがどのようなものであっても最後まで責任を持つ。
意見交換って身構えてゴングを鳴らして始めるものではないし。もっと気楽に踏み込んだって良いんじゃないの。
ベクトルを自分ではなくまずはお相手に向ける、そんな一言から始めるだけでも、きっと世の中は変わると思っている。
ちょっとした会話の中にある小さな成功体験が、きっとお互いを幸せにできる能力に繋がると私は信じている。
人は自分に興味を持ってくれた人間、話を聞いてくれた人間に好意を持つようにできている。
だから、これができたらもっと愛し合えるはずなのだ。共感と受容、この能力は人間だからこその強みになると私は思っている。
 
 
東北に田植えしに行って、擬人化ネコ様の展示会に寄りました。

 
 
 
 
私は寒さとトイレで用を足したい限界に達したので、聞き屋さんに御礼を言って駅構内へ向かう事にした。
 
こちらに私がまとめて書いたあれこれ。無宗教とはなんとも自由に意見を述べられるものだと改めて実感した。
私が圧力を恐れず好き勝手に書けることはなんとも幸せなことだ。この自由を守る為に「表現の自由」の意味を間違えてはいけないと常々思う。
かといってこの世に宗教がなかったらどうだったのだろう?
もしかしたら起きない争い事もあるかもしれない。でも経済はどう動いていたのだろう。人類の救済論はどこにあったのだろう。
この日はクリスマスであった。クリスマスの装飾を見ながら、宗教がなければ存在しなかった文化や行事があるとしみじみ思い知った。まさにクリスマスはそうよね。
世界中で愛される人類の共通財産が宗教の中にはたくさん存在している。植物や自然の中には死を迎えなければ始まらない世界がある。
宗教は私達の身近にとても自然な形で存在している。
 
 
私は自分が培ったコミュニケーション能力をぶん回していこうと思う。別に上手なわけではない。でも私にはこれしかないもの。ならばいっそのこと価値化する人生も良いだろう。
クリスマスに頂くチキンとおはぎの組み合わせも悪くない、そう思いながら明石家サンタの放送に備えたのであった。
 
 
 
 
まきまい
 
 
 
 
翌年、明石家サンタは放送中止になりました。
 
 
 
次回は入院中に同室だった患者さんのお話です。別に仲良くなったとかではないんだけど、印象に残ったので。

後編も書いてるんだぜ

 

私を存じている方も存じていない方もご訪問ありがとうございます。

最近は私の実態を存じていない、ブログだけの繋がりの読者様も訪問して下さる事が増え、びっくりしています。

猛者、ありがとうございます。

とりあえず美人ではありません。若くもないです。あとはそのまんまです。

彼氏いるともいないとも、既婚だとも未婚だとも一言も書いていないのですが、勝手に独り身認定される属性です。

 

 

夏なのかな?夏きたのよね。

エアコンは極力使わないタチですが、昭和根性で人様に迷惑を掛けたらいかんので、今期は上手に付き合っていきたいと思います。まだ出番ないけど。

 

血管が脆くなり血液バランスも悪くアザができやすいのですが、これでひとつ思い出した事があります。ちなみにこれ変態にフィストファックをしたらなりました。けっこう狭いオケツだったもので。

 

親しくしてくれている人が(歯並びキレイ)手の甲にアザがあるという話になって、どうやらそれは国内に何人かいて、正体は地球防衛軍だったかな。

それぞれは仲間を知らないのですが、ある日近くまで来て揃うとフォーメーション(たぶん五芒星なんじゃないかと思うよ)が出来上がり、完成するとかなんとか。

私どうやらその1人だったようです。ピンク担当。色んな意味でピンク担当。

きぇえええいい!!

 

お会いしてとりあえず直線一本繋がるか試しませんか?と思います。

 

 

 

私はずっと漆黒のショートカットかボブだったのですが、その頃をご存知の方からしたらまあまあロン毛になりました。私にしては。江口洋介ぐらいかしら。

 

 

土用の日、まもなく。鰻は精力付くらしいですね。梅干しと食べ合わせ良くないって本当かな。

とりあえず精力って言ってもちんぽこに即効性はないよね。性のパートナーで実証済みです。

 

大好きなブロガーさんが、精子の色が正常ではなかったとのことで心配。

 

最後に私の生理周期言っとこか。これ便利なんよ。色々記入すると教えてくれます。

 

ゴムなし生SEX解禁も近いお年頃。お初を経験したらこのブログのネタにします。

 

 

 

次回は聞き屋さん後編でお会いしましょ〜♪

 

 

まきまい

 

 

誤って自分の記事にスターマーク付けてしまう時がある。恥ずかしいからなんとかならんのかと思う。

 

 

後編、書いておる。ちなみに百恵ちゃんは伝説

 

聞き屋さん前編読んで下さった方、ありがとうございます。

後編書き方が難しくて、特定の誰かの事を言っている訳ではないのですが、当てはまると感じた方にとっては嫌な思いもするのかなーとか色々思う。

でもそんな事言っていたら何も書けないので、そういうのは気持ちを発信する上では仕方ないのかなとも思います。

表現の自由と人を傷付けて良い事は絶対に違うので、なかなか難しいね。

 

この度宗教観について考えるきっかけにもなり、んで気付いた。

植物って亡くならないと次の生命が始まらないのね。亡くなる事で始まるのね。人間の生まれ変わり説は定かではないけど、植物は生まれ変わり確定。仏教に近い死生観なんかな?

山口百恵ちゃんの「さよならの向こう側」を思い出しましたよ。あの最強のファンメッセージソング。

何億光年輝く星にも寿命があるけど、季節ごとにに咲く一輪の花に無限の命。

 

百恵ちゃんはさておき、いつまでも若々しいとかキレイで変わらない事を願う人もいるけど、私は本人が幸せかどうかだけが大事です。見てくれなんてどうでも良いよ。

 

貴方がハゲてようがなんだろうが、幸せならそれがいちばんです。

ちなみ私は薄毛になりましたが、ヌンチャク振り回しながら幸せに暮らしています。

 

 

今度はいつとは約束しない百恵ちゃんかっこよいな。私はお金を頂きましたら今度はいつと言います。

 

まきまい

 

 

 

 

 

聞き屋さんに話し掛けたけど方向転換した⭐︎前編

前回の続きです。 会話で表すと分かりにくいので、お互いに話して分かったことや私の気持ちなどをまとめて表す書き方にします。

 

無宗教の私だがその宗教独特の「言葉」には興味がある。例えば仏教の「ご縁」という言葉が好きだ。 亡くなってから始まるという仏教。

その「ご縁」の意味を考える機会も増えた。 疎遠になっていた人と共通の知り合いが亡くなった葬式で再会し、再びご縁が繋がる事もある。 まさに仏教の死生観である「ご縁」が導いたものかもしれない。 日頃からご縁というものには感動したり時には皮肉なものだと思ったりもする。

カトリック教ではこの「ご縁」を意味する言葉はあるのだろうか?

 

「近いものだと………恵み、ですね」 聞き屋さんは優しい表情で教えてくれた。 私はこの答えに感動してしまった。なるほど!恵み!確かに何やらそれっぽい!とおバカな感想しか浮かばなかったのですがね。

そしてカトリック教の「恵み」とは、全ては神からの授かり物だと捉えているようだ。これは多神教の日本ではあまり考えられない考え方だ。

そこへ突然12月の寒空の下に麦わら帽子を被った人が通り過ぎた為、ONE PIECEの話になった。 どうやら聞き屋さんはONE PIECEのファンらしい。ちなみに私はそんなに詳しくはないが読んだ事はある。みなさんは空島編をご存知だろうか。 個人的には多神教の話だと解釈している。

神の存在はひとつではない。そして神はいないと思っていても何かにすがり神に祈る。身近なものを神とし神に縋る。 カトリックのような一神教にはない発想だ。 聞き屋さんはどう捉えたのだろう?

聞き屋さんはやはりあの内容は理解し難くあの祈りはただただ疑問だと教えてくれた。国や宗教によってやはり受け取り方は変わる。

日本は信仰に自由がある国。占いも市民権を得ている。例えば北朝鮮では占いは禁止であり、信じるべきものは総書記のみ、占いを信じるなんて言語道断。一神教には一神教の捉え方がある。

我が国NIPPON、信仰自由過ぎ、ここまで「多神教」な国も珍しいのかもしれない。 全ては神からの「恵み」だと捉えているカトリック教。その死生観をもっと知りたい。

 

そして話題は安楽死へと変わる。 現在、安楽死を認めている国はヨーロッパに多い。私は土地柄カトリック教の何かしらの影響があるのではないかと感じていた。または命というものについての価値観が、そもそも日本とは違うのではないだろうか。 とある人の影響も受けての考えなのだが綴るよ。

 

日本は「集団の国」である。それ故にか命も個人のものではないと考えているフシがある。 ざっくり言うと「あなただけのものではないのだから大切にしなければいけない」などどいう共通財産のように教えられているフシ。その考えが安楽死の決定権が本人に与えられない理由になっているのではないだろうか。

日本人は周りを推し量れる民族、一方でその気持ちが強いばかりに本当の決定権は本人の希望から離れていたりもする。 そして例え「個」を主張しても、その選択の自由に口出しする者も後を絶たないであろう、圧力大好き誹謗中傷陰口大好き日本人。

他人の決定権を尊重しながら死と向き合うには向いていない民族なのではないかと思う。(政治的問題も話し合いましたが長くなるので今回は割愛します) 対してヨーロッパは「個」の国。命は貴方のものであり、貴方に全ての選択の自由がある。その考え方が安楽死の許可と繋がるのではなか…

「命は神のものです」

ぅおう!!! 想像を超えた意見に私は舌を巻いた。私が思っていた以上に信仰とは表面的ではなく底が深い思想を持っていた。 命は神から授かったものだから、そもそも人間の判断で決めること自体いかがなものかという考えであった。

「あの、カトリック教では人は亡くなったらどうなるのですか?」気になったので聞いてみた。

「この世の終わりの日に全員復活します。まぁ、この世は終わっているのでどうなるのでしょう?って話なのですが。だから亡くなったら魂で会える仏教とは違うのです。復活する事で皆に会えます。先に亡くなった母もそうやって待っています。私にとっては救いです」「大切な人に会えるのは救いですよね。復活の日まで死者は全員超暇ですね…何してるのでしょうか?」「キリストも亡くなった後、復活まで何をしていたかは聖書にはっきり記されていません」

 

うむ、私は宗教のこの「良い加減」が好きである。 身近な住職さんの言葉を思い出した。

仏教もあの世の存在を断定する言葉は記されていない。信仰とは真実を知ろうとする事ではなく、信じ切ること。信じ切った人間は穏やかな死を迎えられる。たくさんの人を見送ってそう感じたと、そんな言葉を聞かせてくれた。

私も真実を知る事が全て解決に繋がるとは思わない。勝手に解釈して思い込んで自分の救済論として心に落とし込む。そんな幸せが幸せなんじゃないの?なんて思っている。

「諦」という漢字は「真理や道理をあきらかにする」を意味する。真実を知ってしまうと何かを諦める事になるのかもしれない。だから知らない方が勝手が良い事もある。ちなみに「諦」これも仏教用語。うまく教本立ち回ってんな仏教用語。 知らない方が自分を助けてくれる。 私はそんな風に思っている。

私達の仕事もそうかもしれない。 本当の事は対価が発生している間にどれだけあるのだろう。嘘も処世術。嘘はこの世界で成果を上げる為、自分を守るために効率的な技術だと言い聞かせてやり過ごしてきた。

私はできる限りは正直にやってきたつもりだ。でもそれが必ずしも正しいばかりではなかった。必要に応じて嘘もついたし、それもお客様の求める善には正しい選択だったと思う。だからその全てを知ろうと行動したり、私を詮索した人は幸せにはなれなかっただろう。 知らないことの方が、きっと幸せでいられる。 真実を知らない事は何事も救いになるのかもしれない。

私が今こうしてこのブログを続けていられるのも、あなたとの関係性が変わったからである。 対価を頂く身としては知られてはならない内容もたくさんあるから。着ぐるみの中の人間なんて一度でも見たら、二度と同じ気持ちには戻れないのである。 

 

 

そして「人はどんな時に神に祈るのか」のテーマに変わる。ん?そもそも神に祈る事はない。無宗教だしな。 聞き屋さんと話し合う為に考えてみた。無宗教の自分でさえ神に祈る時とな…?

「諦めた自分を知る時ではないかと思います。全て何もかもなくて最後の手段だと思うので、諦めたり全て失った時かなと。なので祈る時は来ない方が幸せだと思います。でも御加護というのはあると思うので御礼は然るべき時には伝えています。特に参拝した時とか」

「あなたは自分を信じているのですね」「今日の決まり事も作れない人間ですが、自分の中の宗教みたいなものはあるのかもしれません。無宗教なので各宗教の都合の良いところだけ自分に信じ込ませているんだなと思います。それが私の救済論なのかなと」

少しかわいげのない宗教観を聞き屋さんは否定せずに聞いてくれた。

自死した祖父は「神に祈る事は罪だ」と言っていたのを思い出した。諦めた自分を思い知る事だから、神に祈ったら人間は終わりだなんて言っていた。 原爆が投下された時に一度だけ神に祈った。その時ほど諦めは罪だと感じた事はなかったと。 当時の価値観ではそれは珍しい事ではなかっただと思う。

そんな拘りの強い祖父だったから、罪を知るぐらいなら自死する方が彼なりの正義だったのかもしれない。 祈りってなんだろう?ある人にとっては感謝、諦めや罪、決意表明、習慣…祈りの幅広し。

 

ただ私は「神に祈る」という事には賛同しなかったが「祈り」の効果には信憑性があると信じている。 私は祈りとは神に捧げるよりも、対象の誰かや物事に自分の中で願うものだと思っている。神は頼るものではなく御礼を伝えたり約束をするものだと思っているから、願い事もしない。

 

 

宗教と医療の論文でも祈りの効果は信憑性があるとされている。不思議だね。

カトリック司祭であり、イタリア人の聞き屋さんだ。聞いておきたい事があった。

「聞き屋さんは日本人に対してどのような印象がありますか?」

「遠慮なく言っていいのですか?」 ゴクリ…聞き屋さんの真っ直ぐな視線にちょいとビビってしまったが、私はこれが1番聞きたかったのだ。

 

続く。 長くなるので近々更新します。意味ありげなところで区切りましたがそんな事もないのです。

 

 

 

祈り繋がりの巫女。 意外かもしれませんが、私は巫女経験があります。助勤ですが。20代前半の頃の話し。 採用試験は巫女らしい容姿とか神と固有文化についての論文みたいなものがありました。あと眼鏡禁止。ちなみに私はエロ屋の仕事中以外はだいたい眼鏡掛けてます。 接客業とはまた違う作法や言葉使いを教えて貰いました。いつの日か詳しく書きたいのですが、エロ屋やりながらだったのでビビっとる。もちろんこれはコスプレ。

 

まきまい